一昨日、中尊寺光勝院を会場に第64回平泉芭蕉祭全国俳句大会(主催:平泉町ほか)が行われた。
特別選者として白濱一羊先生(岩手県俳句協会会長、「樹氷」主宰)の他に、小林輝子先生(岩手県俳人協会顧問)、渡辺誠一郎先生(「小熊座」前編集長)、照井翠先生(「暖響」「草笛」同人)、澤口航悠先生(「暖響」編集長)、二階堂光江先生(岩手県俳人協会副会長)らのもと、急遽座席を追加するほど、かなりの参加者数だった。

松尾芭蕉翁法要の後、平泉観光協会の千葉力男会長開会の言葉に続き、青木幸保平泉町長、中尊寺の菅原光聴執事長の挨拶があり、地元の児童・生徒らの表彰式が行われた。
その後、当日句の提出などを経て、午後1時より「戦争と俳人」を演題に、特別選者の白濱一羊氏による特別講演が始まった。
句評云々と云うよりも、戦時中の結社や句会の浮沈や離合集散、活躍した俳人らのエピソードなど、戦時中の作品などに触れたことは、それはそれで興味深かった。
白濱氏の講演終了後、披講、各選者による選評の後、何事もなく表彰式へと進んだ。

大会結果(当日句のみ)は次の通り

<大会長賞> 当日句特選一席:朱印帳閉じては開く日傘かな 佐々木邦世(平泉町)

白濱一羊先生選
 特選(第一席・大会長賞)     朱印帳閉じては開く日傘かな  佐々木邦世(平泉町)
 特選(第二席・中尊寺貫首賞)   平泉の日蠟涙の乾かざる    郡司山吹(奥州市)
 特選(第三席・毛越寺貫主賞)   一匹の蟻と参らん光堂     村井康典(盛岡市)
小林輝子先生選
 特選(第一席・岩手県知事賞)   炎天を吸ふ関山の杉木立    相馬定子(盛岡市)
 特選(第二席・河北新報社賞)   万緑の統ぶるみちのく浄土かな 三浦寿子(一関市)
 特選(第三席・岩手日報社賞)   艶を消し緑蔭に在り能舞台   沼倉規子(奥州市)
渡辺誠一郎先生選
 特選(第一席・岩手県議会議長賞) 万緑の統ぶるみちのく浄土かな 三浦寿子(一関市)
 特選(第二席・岩手日報社賞)   朱印帳閉じては開く日傘かな  佐々木邦世(平泉町)
 特選(第三席・中尊寺賞)     蛮夷なる声遙かなり蝦蟇    砂金眠人(一関市) 
照井翠先生選
 特選(第一席・平泉町教育長賞)  蛮夷なる声遙かなり蝦蟇    砂金眠人(一関市)
 特選(第二席・岩手日日新聞社賞) 供華として咲き継ぐ未来古代蓮 阿部靖(奥州市)
 特選(第三席・毛越寺賞)     苔の花鑿跡古ぶ楸邨碑     沖田誠子(一関市)
澤口航悠先生選
 特選(第一席・平泉町議会議長賞) 中尊寺仏の下に蟻地獄     齋藤雅博(盛岡市)
 特選(第二席・岩手日報社賞)   鞘堂の梅雨の敷居を跨ぎけり  和田タケ(盛岡市)
 特選(第三席・岩手日日新聞社賞) 夏帽子小脇にはさみ光堂    菅原節香(一関市)
二階堂光江先生選
 特選(第一席・一般社団法人平泉観光協会長賞) 
                  鞘堂の梅雨の敷居を跨ぎけり    和田タケ(盛岡市)
 特選(第二席・河北新報社賞)    堂涼しシルクロードの夜光貝  熊谷房子(気仙沼市)
 特選(第三席・岩手日日新聞社賞)  日の中を旅の途中の茅の輪かな 工藤好子(盛岡市)


因みに、私の作品(当日句)は惜しくも特選を逃したものの、渡辺誠一郎先生選で秀逸、照井翠先生選の佳作に辛うじて滑り込むことができた。但し、俳号で提出したつもりだが、結果表には本名で掲載されていた。


heannokaze
上のフォト短歌の「上の句」が秀逸に選ばれた一句。


kaikaishiki

sasakihosei
佐々木邦世様 最高賞受賞、誠におめでとうございます。
因みに、一関・文学の蔵の『ふみくら9号』(6月刊行)に、句碑に想う「青邨と楸邨」と題して佐々木邦世様の寄稿文が掲載されている。


以下は、一関・文学の蔵発刊の『ふみくら9号』に寄稿し、また、今年3月に完成した私の新著、フォト詩歌随筆集『怡怡黙黙』に収めた、西行法師を取り上げたエッセイ。


西行のみちのく巡行と子規の無念                                                                                          
 西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)。法名は円位(えんい)。西行は平将門の乱を鎮圧し、大百足を退治したとの伝説が耳に及ぶ俵藤太こと藤原秀郷公の9代目、京都の鳥羽院に仕えた文武両道を誇る北面の武士だった。同じく藤原秀郷公を始祖に持つ奥州藤原家の藤原清衡公とも血脈がある。
 義清は23歳で出家し、西行と名乗るようになったが、その理由としては、禁断の恋の失恋問題や、懇意の友の他界が要因ではないかと憶測を呼んでいる。しかしながら鳥羽院への暇乞いの和歌などから、次の理由ではないかと推察される。
 義清は当時、佐藤一族の棟梁として荘園を管理していたが、隣接する鳥羽院領の荘園との境界紛争が起こり、23歳の義清では佐藤一族の圧力を抑えきれなかった。おそらくそのことが大きな要因となり、若くして仏道に帰依することを選んだのではないかと目されている。
 西行が平泉入りする一世紀程前、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠み、みちのくの歌枕を求めて歌作に努めた能因法師の足跡を辿りながら、西行は奥州藤原家を2度訪れている。1度目に平泉を訪れたのは西行20代後半の頃。迎え入れたのは奥州藤原氏2代目領主(御館)藤原基衡公だった。共に始祖が同じだったことから、歓待されたようである。「藤原基衡は秀郷(長男千晴の流れ)から8代目。西行は秀郷(次男千常の流れ)から9代目」
 西行は清衡公が関路を開いたと伝わる、白河の関から津軽地方迄繋がる奥大道を徒歩でみちのくを目指し、塩釜や松島などの歌枕を訪れながら、最初に平泉入りしたのは天養元年(西暦1144年)旧暦の10月12日だった。新暦では11月下旬から12月上旬、肌寒く感じられる頃である。中尊寺の北側を流れる衣川の岸に立ち、「とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河みにきたるけふしも」(山家集1131)と詠んだ。
 西行が平泉を訪れた一世紀程前、衣川周辺は前九年の役、後三年の役の修羅場と化した戦場だった。前九年の戦いの折、陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義の攻勢にひと先ず退却を余儀なくされた安倍貞任(清衡母方の伯父)に、後方から追いついた源頼義の嫡男源義家(八幡太郎義家)が、弓に矢をつがえながら、「衣のたてはほころびにけり」と和歌の下の句を吟じると、安倍貞任はすかさず振り向き、間髪入れずに「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。その当意即妙なる返歌に対し、深く感銘を覚えたのだろう。つがえた矢をはずし、武勇の誉高い義家は追撃を断念したとの逸話が、『古今著聞集』に記されている。衣川に纏わる逸話は、約550年後の天正18(1590)年にもある。『名将言行録』によると、当時の大崎・葛西旧家臣らが領民と共に起こした一揆の折、鎮圧に赴いた蒲生氏郷が、捕らえた賦役の人夫を引き連れて帰路に着いた。ちょうど衣川に差し掛かったとき、賦役の人夫が「昨日たち今日来て見れば衣川 裾のほころびさけ上がるらん」と詠んだ。
 掛詞などの歌作技法も含め、その一首に感じ入った蒲生氏郷は人夫の賦役を免じて帰したとのことである。おそらく氏郷は、武勇の誉高い八幡太郎義家を意識したのではないだろうか。
 西行が平泉に着いたのは旧暦の10月。平安時代では冬の季節である。西行一回目の巡行は桜が咲く迄平泉に滞在していたであろうことから、約半年以上は滞在していたものと思われる。江戸期の俳人、大島蓼太(りょうた)が詠んだ「山聳え河流れたり秋の風」の一句を思い出すが、平泉の高舘や中尊寺の中腹から、北上川を挟んで東方に目を向けると、連綿と連なる北上山地が一望できる。低山だが、蓼太にいわせると聳えている束稲山一帯には、嘗て藤原清衡公の祖父安倍頼時公によって一万本の桜が植えられたといわれ、西行は次の一首を残している。「きゝもせずたばしねやまのさくら花よしののほかにかゝるべしとは」吉野の桜は「一目千本」といわれ、桜の名所として知られているが、その吉野の桜を凌ぐほど束稲山の桜が見事だったのであろう。ただ、この一首については、藤原秀衡公が植えた千本桜を見て詠んだのではないかとの説もあるが、それでは時代背景がやや異なることから、既述の安倍頼時公が植えた一万本の桜で間違いないと思われる。
 また一方で、歌の解釈として、覇府、都邑としての平泉。当時の繁栄ぶりを称える歌として解する向きもあるようだが、そうなると「よし野」の掲出は腑に落ちない気がする。ここは素直に解すべきだろうと私は思う。また、西行が平泉を訪れて歌作した詠草のなかに、「涙をば衣川にぞ流しつる古き都を思い出でつつ」の一首がある。当時、平泉に配流(はいる)された奈良の僧侶十数名がいたそうだが、西行が奈良の話をすると、懐かしさのあまりか、皆涙しながら西行の話しに聞き入ったのだそうだ。そのことを詠んだ和歌が『山家集』に載っている。
 西行が平泉を訪れた一回目から約40年後の文治2年(1186)、西行69歳の頃。東大寺の再建の為、二度目の平泉来訪となった。当時は亡き基衡公の跡目を継ぎ、秀衡公が領主に就いていた。秀衡公は西行の申し出を快く承諾し、砂金450両を寄進したといわれている。その後西行は弘川寺を終焉の地として、「ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ」『山家集』の辞世の歌を残し、旧暦の2月15日、釈尊涅槃(しゃくそんねはん)の日に入滅したといわれている。
 西行は生涯、約2300首の和歌を残している。松尾芭蕉が西行を「花鳥風月を愛でる歌人」と評するように、西行の歌には生活実感を体現しながらも、歌心の要諦を暗示させる清廉で混濁のない自然詠が多く詠まれている。西行が思慕する能因法師の足跡を辿るように、その西行を慕う俳聖松尾芭蕉がみちのくを巡行し、日本の古典文学における紀行作品の傑作、東山和紙に揮毫した『おくのほそ道』を残した。その秀逸な文芸に感化され、触発されて奥州路を旅した短詩系文学の中興の祖、正岡子規の無念を書き留めておきたい。
 子規は芭蕉の『おくのほそ道』を偲び、明治26年7月19日に東京を立ち、35年の人生のなかでたった一度だけ、約一か月間にも及ぶ大旅行を敢行している。古代から高い文化を有する大陸に面した日本海側の優位性を意識してか、菅江真澄やイザベラ・バード然り、子規は仙台から山形の酒田、更には秋田を訪れ、奥羽山脈を越えて岩手に入った。湯田町、北上市を通り抜け、水沢市(現在の奥州市)を訪れ、水沢公園へと足を運んだ。そこで詠んだ一句が、「背に吹くや五十四郡の秋の風 」そのことが『はて知らずの記』に記されている。その『はて知らずの記』によって、蓑虫山人設計の水沢公園は名園として名を高めたのである。子規はその後、芭蕉が訪れた要所の平泉には立ち寄らず、東京に戻ったとされる。翌年、子規は結核の為、35歳でその人生の幕を閉じたが、水沢公園で詠んだ背に吹く秋風の冷たさが、体調を悪化させたのかもしれない。本当なら平泉に立ち寄り、西行の歌碑や芭蕉の句碑を拝み、先覚者らが感慨に耽ったであろう歌枕に思いを馳せたかったのではないだろうか。

                                                 中尊寺西行祭全国短歌大会実行委員会会長  伊藤英伸



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