西行法師の俗名は佐藤義清(のりきよ)。法名は円位(えんい)。
西行は平将門の乱を鎮圧し、大百足を退治したとの伝説が耳に及ぶ俵藤太こと藤原秀郷公の9代目、京都の鳥羽院に仕えた文武両道を誇る北面の武士だった。
同じく藤原秀郷公を始祖に持つ奥州藤原家の藤原清衡公とも血脈がある。

義清は23歳で出家して西行と名乗り、平泉を2度訪れている。
最初に訪れたのは西暦1144年旧暦の10月12日だった。
その一世紀程前、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠み、みちのくの歌枕を求めて歌作に努めた能因法師の足跡を辿るのが目的の一つでもあったようだ。
最初に平泉を訪れた当時、迎え入れたのは奥州藤原家2代目領主(御館)藤原基衡公だった。
共に始祖が同じだったことから歓待されたようである。「藤原基衡は秀郷(長男千晴の流れ)から八代目。西行は秀郷(次男千常の流れ)から九代目」

西行は僧侶として訪れたことから、中尊寺に参詣し、仏像を初めとする仏典などを礼拝し、拝誦したと思われる。
おそらくそのなかに、奥州藤原家初代藤原清衡公が、書家に書写を指示したとされる願経、紺紙金銀字交書一切経があったと思われる。

西行が2度目に平泉を訪れたのはそれから約40年後、69歳の頃である。
東大寺再建の為の平泉再訪となったようだが、当時は亡き基衡公の跡目を継ぎ、秀衡公が領主に就いていた。秀衡公は西行の申し出を快く承諾し、砂金450両を寄進したといわれている。
その藤原秀衡公が祖父清衡公の遺志をついだと思われる願経、紺紙金地一切経を5390巻奉納したと云われている。しかしながら中尊寺に現存するのは2724巻のみ。
その失われたなかの1巻が、住田町で見つかったとの記事が地元紙に載っていた。
私も一日一行を自分に課し、紺紙金銀字写経を続けていることから、興味深く紙面に目を通した。

昨年、金色堂は創建900年目を迎え、来年(2026年)には中尊寺の伽藍落慶から900年目を迎えるが、中尊寺の顔とも云える本坊の表門が、経年劣化に伴い現在修復に取り掛かっている。
しかしながら如何に世界遺産と云えども、失政による30年来の景気低迷に輪をかけ、新型コロナの世界的な蔓延により、観光客の足は遠のいたことはかなりのダメージを受けていた筈。
新型コロナも若干収束傾向にあり、客足は戻りつつあるものの、中尊寺は元々一般の寺院とは異なり、法要や葬儀のお布施、檀家の寄付で運営を維持する形態をとっている訳ではない。

その為、表門の修復費を工面するにあたり、今回初めてクラウドファンディングを取らざるを得なかったと思われる。
そのことが地元紙でも紹介された。
また、毎年ゴールデンウィークには平泉商店街を練り歩く「東下り」が開催されるが、やはり既述のコロナ等の影響は大きく、同じようにクラウドファンディングによる資金の捻出を余儀なくされている。
伝統を守り、文化を後世に受け継ぎ残すことは本当に大変なことである。