先日、一関博物館にて菊池勇夫館長の講座を受講させていただいた。
一関博物館主催による今年度4回目の講座だが、私は初の受講となる。
講座名は「雪国の春-柳田國男を読む」柳田國男と東北、特に岩手県との関わりについての講座である。
柳田國男と云えば、『遠野物語』が真っ先に思い浮かぶが、今講座ではあまり詳しくは触れなかったものの、一番知りたかった地元一関との関わりについて、初めて知り得たこともあり大変有り難かった。
柳田は当時、農商務省の官僚として、農業政策や三倉の研究、産業組合などに取り組んでいたとのことだが、胸中では小農を重視したいとの思いから、退官して民俗学研究の世界に入った。
1947年には民俗学研究所を設立。初代会長を勤めた。
菅江真澄に傾倒していた柳田は、「二十五六年も前から殆ど毎年のやうに北か東のどこかの村をあるいて居た」と自著『雪国の春』の自序にあるように、官僚時代から東北を幾度となく訪れていたようだ。
そのなかに一関も含まれている。
当地一関は、有史以来度々洪水に悩まされ、遊水地完成前は頻繁に水害に見舞われてきた。
一関は弓弭の泉を源に持ち、東北では最大の一級河川北上川の中流域に位置している。
南東部の狐禅寺付近から川崎を通り、宮城県北に抜ける迄の約26km、両岸は急峻な山地に囲まれた狭窄部分が多いことから、嘉永年代や明治8年の大洪水、更には昭和22年のカスリーン台風や翌年のアイオン台風では市街地が水没し、400名以上の尊い命が奪われた。未曾有の大災害を経験している。
1920年(大正9年)に柳田が一関を訪れた時も、水害に見舞われて足止めを余儀なくされたようである。宿泊したのは現在の一関郵便局斜向かいの清水屋旅館(今はない)。現在一関郵便局のある場所は、当時一関市役所が建っていた。
柳田の甥、泰忠からの講演依頼に対する断りや、今後の旅の予定、当時の東磐井郡川崎村に住む、舞草(現・舞川小)小学校長の鳥畑隆治氏に会いに行けず、旅館の一室で読書しているなど、その旨の葉書を胡桃沢勘内宛に送ったそうである。
翌朝漸く水も引き、目的地の遠野に向かったようだが、一関での滞在の折、大水の為、手水場にも行かれない程辺り一面洪水で大変な筈なのに、住民は淡々としている様子に驚いたとのこと。
既述したように、一関では何度も洪水を経験していることを物語っているようである。
追記
文中に「三倉の研究」とあるが、三倉とは、義倉(ぎそう)・社倉(しゃそう)・常平倉(じょうへいそう)など、穀物の貯蔵施設の総称である。凶作のときなど、備蓄してある三倉から米を放出し、米価の調整を図るなど、窮民を救っていたそうである。
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