「命」と云う漢字を分解してみると、どこかで聞いたことがありそうだが、「人に一度は叩かれる」と読める。
人生に於いて、試練は一度のみとは限らないが、いずれにせよ叩かれて強くなり、叩かれることによって「生」を実感し、それによって真の喜びを知ることができるのかもしれない。

その「生」、「生きる」ことを探求し、「詩」と云う自由律の文学で表現してきた詩人、谷川俊太郎さんが11月13日、都内の病院で老衰の為天に召された。享年92歳であった。
あるキャスターが、「谷川さんの詩には、明確な理由や説明を超えて心の襞に触れていく瞬間がある」と述べていたが、「言霊」「言の葉」の真髄がそこにあるのではないだろうか。

詩について、谷川さんが「音楽もそうだが、理由がなく胸がいっぱいになる時がある」「しゃべっている言葉とは違った次元に行くのではないか」とも話しておられた。
確かに、音楽には心を震わす目に見えない何かがある。
耳から入って脳を刺激し、ダイレクトに心の奥底、琴線に触れる。謂わば、一定の周波数の音波に反応する聴覚的作用だが、一方、詩は、自由律の韻文としての特性を持ち、視覚を通してオブラートに包みながら、少しずつ少しずつ、心の琴線に触れてくるものだと私は解釈している。
詩も、音楽も、タイミングや場面に応じて、互いに共鳴し合い、胸に響いて身を知る雨を降らせるのではないだろうか。

谷川俊太郎さんの詩『生きる』を改めて読み直してみると、空知らぬ雨とともに、「隠された悪を注意深く拒みながら」意思を強く持ち、「今、いまが過ぎていく」と云うことを自覚し、実感しながら、「大切に生き抜くこと」の大切さを改めて考えさせられたのだった。

先ず以て、衷心より哀悼の誠を捧げます。


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