猫間が淵とは、今は水田などに埋め立てられてその面影はないが、今から900年程前の平安後期、藤原清衡公から藤原泰衡公迄の4代の居所があった場所と、当時の政庁があった柳之御所を隔てた大きなナマズのように横たわっていた水路、と古地図に載っていたそうだ。
「猫間が淵」の語源は、猫間扇に似た石が中島にあり、そこから名付けられたとの説もあるようだが、当時その地に、猫間中納言光隆卿の家司 岸高が宅地を捨て、寺(大報恩寺)と爲したことから名付けられたとの説が有力である。
その猫間が淵跡の周辺には、現在、岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターや、その直ぐ東側には「道の駅平泉」が建っている。
平泉世界遺産ガイダンスセンターは、世界遺産「平泉」の概要を紹介する施設として令和3年11月にオープン。
同時に旧・柳之御所資料館をリニューアルした施設である。
その平泉世界遺産ガイダンスセンターから道路を挟んだ北側に、柳之御所史跡公園が、北西に義経堂を拝する高館(衣河館)跡、その斜め後方には金色堂など数々の伽藍が点在する中尊寺一山を臨みながら広がっている。
12世紀当時、柳之御所には奥州の政治・行政を担っていた政庁があり、多くの出土品が見つかっている。それらの出土品により、900年前の人々の暮らしぶりを垣間見ることが出来るのではないだろうか。
奥州平泉の繁栄は、砂金や「糠部の駿馬」として知られた馬の産地であるのみならず、北上川を航路として盛んだった交易により潤っていた。
当時は貴重品として重宝された白磁や青白磁など、中国産磁器や渥美窯、常滑窯で焼かれた国産の陶磁器も多く出土している。
柳之御所跡に立ち、西方を仰ぎ見ると、小高い円錐状の金鶏山が確認出来る。 その金鶏山頂上の経塚には、「平泉を守る為、黄金の鶏を埋めた」また「北上川迄人夫を並べて一晩で築いた山だ」などの伝説が残る信仰の山でもある。
その金鶏山を中心に、北に中尊寺、南に毛越寺を鳥瞰すると、仏国土(浄土)を思い描き、みちのくの文化と安寧、繁栄の礎を築いた初代藤原清衡公の思想が今も息づいているかのように感じられてならない。
また、清衡公の母方の伯父に、英雄豪傑で知られた安倍貞任がいるが、武侠の誉のみならず、文化的な側面をも持ち合わせた人物である。
安倍貞任が前九年の役の折、態勢不利と判断し衣川柵を後にした際、追ってきた源義家(八幡太郎義家)が矢を貞任の背に向けながら、下の句「衣のたてはほころびにけり」と詠んだ。
それに対して貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を即座に返したと云う。
この連歌の問答に、安倍貞任を野蛮で粗野な人物だと思っていた義家は、当意即妙なる歌才に感動し、矢を収め、引き返したとの逸話が残っている。
当時の朝廷側では、みちのく人を蝦夷と蔑んでいたようだが、独自の文化を持ち、教養も供えていたことを物語る逸話があったと云うことだけは、申し添えておきたい。
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