宮沢賢治が亡くなったのは1933年(昭和8年)。今から約87年前の9月21日だった。
秋の収穫期を迎える晴天の日のこと。
自宅がある花巻市街地では、ちょうど東北屈指の山車祭り「花巻祭り」の最中だった。

当時の東北地方は、山背などの影響により天候不順の日が続き、米農家は凶作続きで悲鳴をあげていたようだ。
賢治が農業技師として、農業技術の習得に力を注いだのは、疲弊する農民たちを思い、助けになろうと半生を捧げたのではないだろうか。賢治の、人を思い気遣う心の優しさがひしひしと伝わってくるようだ。
勿論、その優しさは、持って生まれた性格でもあるだろうが、賢治が信仰する法華経の教えによる影響も大きいのではないだろうか。

法華経は、今を生きることを大切にし、久遠の仏・釈迦の大慈悲により、人々の苦しみを和らげ、社会全体の幸せや庶民が無限に救われることを願い、誰もが平等に成仏できると云う仏教思想の原点が説かれている。
賢治文学の特異性は、この法華経の教えが根底にあるのではないだろうか。
賢治の文学活動は、詩歌や児童文学への影響も大きく、日本のみならず世界への浸透も年々高まっていると思われる。
雨にも負けずで代表される賢治文学には、自己犠牲をともなう利他愛、人を慈しむ優しさが滲んでいるのではないだろうか。「自国或いは自分さえ良ければそれで良い」と云った利己主義が世界を席捲し、荒ぶる昨今、改めて賢治の文学を通して、利他愛の精神が世界に浸透していくことを願って止まない。

賢治の文学のなかで、あまり注目されず、評価も低い短歌だが、学生時代から取り組んでいた。
賢治の歌稿には、Aが762首、Bが811首、それ以外にも詠草があることから1600首以上の作歌を実現している。
特に学生時代の歌稿が多く、同じ旧制盛岡中学(現・盛岡第一高校)出身で10歳年上の石川啄木から影響されたであろうことに疑う余地はない。
ただ、学生時代のみならず、賢治が37年の生涯を閉じる前日、2首の辞世歌(絶筆)を残している。

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

2首とも、天候に恵まれ、米の実りが良いことに安堵して詠んだ内容だが、最後の最後まで賢治は、自分のことよりも農民たちのことを思い、案じながら安らかな表情で天に召されたとのこと。
いかにも賢治らしい最期と云えるのではないだろうか。

生前賢治は、母親に、短歌や詩の詠草、児童文学などの作品は、御仏から下されたものをひたすら書いたものなので、いずれ世の中に広まっていくだろうと話していたそうだが、賢治が他界して暫くしてから、北原白秋らによってその予言は現実のものとなった。
今尚世の中に、賢治イズムが浸透しようとしている。いや、利己主義が罷り通る混沌とする今、世界に浸透させ、大いに広げなければならないのではないだろうか。


kenjisama





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