「この世に絶対あって欲しくないもの、あるべきじゃないものは何か」と問われれば、先ず何と言っても戦争や内乱などの殺戮の伴う争いだと私は答える。
また、この度の福島原発の事故による目に見えぬ恐怖を、まざまざと思い知らされた放射能も、敢えて挙げるべきだろう。
この度、野田総理が「国民生活を守るための再稼働である」と明言し、電力不足が懸念される夏季限定にとどまることなく、継続的な再稼働、再起動を表明したが、今後の流れとして、この大飯原発の再稼働を呼び水として、他の原発再稼働促進に繋がるのではないかと懸念するところだ。

また、大地震やそれに伴う大津波、落雷や自然火災など、天変地異などでもたらされる自然災害に関して、ある意味、人智を超えた自然災害に対しては、受動的立場で静観する以外に、方法が見つからない場合が往々にしてある。
更には、「全ての自然災害を止める」などといった驕り高ぶった考えを持たずに、所謂「諦観する」といった、逆風をついて進むような逆らい方ではなく、その大自然の猛威や脅威を、素直に受け入れ、どう付き合っていくかが重要であると考えられる。

つまりは、この世に絶対にあってはならないものとは、人が人を傷つけ合う事など、我々人間がもたらす人災以外にないといえるのではないだろうか。
また、裏を返せば、「修正可能な事案ばかりだ」と言えるのではないだろうか。「人が人を裁く」ことは、観念として必ずしも正しい事だと、私は思わない。

しかしながら我々人類が、幸いにもこの世に生を受け、社会に於いて一生を全うする上でも一定のルールや規範が必要となる。
その決められた原則的ルールに則って、罪を裁き、悪行を抑止する為の強制力が必要となる。
また、その強制力に伴う法を全うするにあたり、清廉でしかも潔癖な監視、監督者が求められる。
その法の番人たる者や組織が、故意は勿論だが、「たとえ間違いであった」としても、人を罪に陥れては絶対にならない。

洞察力の極めて乏しい三流の物書きが、シナリオを書いたかのような単なる辻褄合わせをする
陳述調書により、事実無根である無実の人間を、罪人に仕立て上げるなんてことは断じて許し難いと言わざるを得ない。就中、絶対にあってはならない事だ。

「冤罪事件」は、古い体質の戦前戦後の混乱期のみならず、つい最近まであるのが現状だ。
過去の冤罪では、免田事件や財田川事件、松山事件などなど、近年では足利事件、そして今回の東電OL殺人事件では、強盗殺人罪で無期懲役の二審判決が確定されていたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者に対し、新証拠とされるDNA鑑定結果を基に「別の男が犯人である疑いを否定できない」として、再審開始と刑の執行停止が決定された。

冤罪の犠牲となったマイナリ氏も、当時は夢を膨らませて遥々日本にやってきた筈。そしてこれから、将来に向けて頑張ろうと思っていた矢先に、この事件に巻き込まれ、濡れ衣を着せられて15年もの長きの間、人生に於いて一番貴重であった筈の時期、更には自由を奪われ、冷たい鉄格子に囲まれ苦汁をなめてきた。その無念さを思うと、不憫で仕方がない。
そう思うと、人が人を裁く事の重さや切なさ、虚しさを、ひしひしと感じぜずにはおれない。
裁判員制度が始まって3年目を迎えた今、改めてその、事の重大さを思い知らされているような気がしてならない。

マイナリ氏は明日(2012年6月15日)、迎えに来ていた家族らと共に、18年ぶりとなる祖国ネパールに帰国するとのことだ。



【痴漢冤罪】町田痴漢冤罪事件


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