ことの発端は、京都の大文字焼きでの「高田の松」の受け入れ拒否であった。
そもそも、東日本大地震の大津波により、名勝「高田松原」が1本の松を残して根こそぎ薙倒され、その倒された松の木を、被災され津波の犠牲となった御霊(みたま)の供養の為に、本来怨念を取り払い魂魄を慰霊する行事である京都五山の送り火に於いて、
護摩木として燃やされ、犠牲者の慰霊や復興祈願を期して持ち込まれた高田の松の木が、放射能汚染による問題の末に結局受け入れられなかった事に端を発し、箱根強羅夏まつりの大文字焼きや、或いは千葉県成田市にある成田山新勝寺での「おたき上げ」にまで、その風評被害が広がっていった。

箱根強羅夏まつりについては事後承諾で大きな問題にはならなかったようだが、成田山新勝寺の「おたき上げ」でも主催者の思いとは裏腹に、反対や苦情の電話が相当数に上っているとの事だ。
何とも悲しい切ない思いに駆られる出来ごとだが、それらの行為に対して反発の意見や苦情が激化している。
「世界は今回の未曾有の大災害の中、絆で結ばれ助け合う日本人に対して敬意を表わしている。
そんな中で、伝統にあぐらをかいた京都人は尊敬される対象ではない」
「京都市の対応に対して、“物が言えない”との逃げ口上の発言に終始している事も納得出来ない」
などなど。

被災地高田市と同じ県に居を構える者として、差別とも受け取れる無知蒙昧の温床になりかねない風評被害に対して、大鉈を振るい、一刀両断に切り捨てる意見に対して、全面的に賛同したくなる気持ちもまた否定は出来ない。
しかしながら、よくよく考えてもらいたい。

一部の京都市民から、
「放射能汚染が心配だ」「琵琶湖の水が飲めなくなるのでは」などの声も寄せられた事に対して、もし仮に、自分の幼い子や孫が京都五山の麓や成田山の直ぐ近くに住んでいたとしたらどうだろうか。
セシュウム汚染による被害の紛れもない真実や、信憑性のある確実な情報が無い限り、やはり躊躇するのが本意だといえるのではないだろうか。
また、他の京都市民からは、「“いちげんさんお断り”のようで市民として恥ずかしい」「被災地の思いをくめないのか」「風評被害に加担するのは恥ずかしい」といった抗議が1000件以上も殺到したという。

問題は、放射能汚染による被害の確実で信憑性のあるデータや情報が無い事にある。


「取り寄せた薪の表皮部分から、1キロあたり1130Bqの放射性セシウムが検出された」と具体的な数字で示されたとしても、度重なる不確実で信憑性のない情報発信に翻弄され、騙され続けてきた一般の市民に罪はなく、またその意識に対して、問題にすべきではないのではないだろうか。
今回の問題で一番危惧する事は、何といってもこの対立する相互の感情や、無知蒙昧な差別的偏見が続く事である。更には、今回の問題を引き起こした最大の原因ともいえる放射能、つまりは原発の有無について、徹底的に議論し見直すべき時ではないだろうか。

自然と共に生き、自然の恩恵を受けながら歩む事が尊いと感じるのならば、先をしっかりと見据えた、決して我欲にとらわれる事のない議論であってもらいたい。



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